로그인遺跡の祭壇部屋の前にて、グレンの提案に同意しようとしたエルキュールの言葉を奥から発せられた声が遮った。
奥にいるのはあの人影のみ。つまり、あの人物がエルキュールらに向けて言葉を発したことは明白だった。
動きを悟られないよう十分な距離をとっていたつもりだったが、こちらの動きが知られていたらしい。
突然声をかけられたことで声を発しそうになるが、二人は何とか息を殺し相手への警戒を強めた。
「ふむ、静観……か。――悪くない選択だ。尾行の腕前はもう少し磨いた方がいいと思うがね」
ローブを纏っているので外見を知ることはできないが、声質は男性のもののようだ。低く力強い声に硬い口調、そのいずれもが聞く者に威圧感を与える。
その男は祭壇の方を見ながらもエルキュールらを冷静に分析していた。背中に目がついているのだろうか、この男は。
いずれにせよ、その様子からは男が只者ではないことが窺い知れる。迂闊に近づけばどうなるか分かったものではない。二人は消極的な対応をせざるを得なかった。
「おや、尚も続けるとは……随分と私のことを高く評価してくれているようだな。……まあ、ここで相対するのは予定にはなかったことだ、向かって来ないのならそれで構わない。その調子で、これからヌールの街に起こる災厄も静観していてくれたまえ」
「……どういう意味だ?」
男の発した言葉の内容に、エルキュールは聞き返さずにはいられなかった。
『ヌールの街に起こる災厄』、なぜそれが起こるとこの男に分かるのか。その問いの答えに至る前に、エルキュールは部屋の奥の方で闇の魔素が集約していくのを感じた。
男が魔法を放出しようとしているのだ。この魔素の流れ、エルキュールにも馴染み深い――その魔法の名はゲート。二つの空間を繋ぐ闇魔法だ。
「……! そうはさせない!」
男はこの場から離脱しようとしている、そのことにいち早く気付いたエルキュールは意を決して部屋の中に飛び出し――
「ダークレイピア!」
ゲートで移動しようとしていた男に目がけて攻撃した。
しかし、その攻撃は彼に届く寸前、不思議なことに何かに弾かれるが如く軌道を変え壁に突き刺さった。
「な……」
闇魔法の衝撃により壁の一部が崩れ、周りに掛けられていた燭台も砕け散り破片が吹き飛ぶ。
「……甘いな。魔法はこう放つのだ――ダークレイピア」
「これは……!?」
エルキュールが放ったものより一段と威力の高い魔法が、男の振りかぶった手に倣い放たれる。その黒の細剣は、エルキュールに魔法による防御を許さない速度で彼に襲いかかった。
「危ねえ、エルキュール!」
男の放った魔法をグレンが炎を纏った大剣で防ぐ。火属性魔法・バーニングを付与された剣身は実際の大きさよりも肥大化しており、ダークレイピアと相殺し小規模な爆発を引き起こした。
「ちっ、やべえ威力だな……」
爆発の衝撃に後退りながら、グレンは苦悶の表情を浮かべる。結局、二人そろって男の前に引きずりだされる形になってしまった。
「ったく、らしくねえぞ、エルキュール!」
「すまない……でも、こうなった以上やるしかない」
男を見据えながら批判をするグレンに、エルキュールもまた警戒しながら答える。僅かなやり取りではあるが、男の実力はかなり高いことが分かった。
恐らく、エルキュールとグレンの力を以てしても届くかどうか危うい。先ほどエルキュールの魔法を弾いた何か――その正体も不明のままだ。
それを攻略しない限り、勝利を掴むのは叶わないだろう。「クク、やる気になったのかね? だが残念だ……貴様たちと戯れている時間はない。――仕事が控えているのでね」
「行かせると思うか? 何を企んでいるか知らないが、ヌールの街には手は出させない」
間違いなくこの男はよからぬことを考えている。そしてそれは、彼の先の発言も合わせると、ヌールの街に被害をもたらすものであろう。
ここで男を逃すわけにはいかない、エルキュールは攻撃の構えをとる。
魔法は弾かれてしまったが、直接攻撃ならば効果があるかもしれない。
エルキュールは瞬時に男の間合いを詰め、体の回転を乗せたハルバードによる一撃を繰り出す。「――無駄だ」
渾身の一撃は男に届くことはなく、彼が翳した右手の先の中空で不自然に止まった。
先ほどエルキュールの魔法を防いだ術と同じく、盾らしきものは何もない。 しかし、エルキュールがどれだけ力を込めても刃は静止したまま動かない。だが、一つだけ先ほどと異なる点がある。
ここまで接近し魔素感覚を研ぎ澄ませることによって、エルキュールは刃とそれが触れている空間との間に、微かな黒い魔素が煌めくのを見た。
「くっ……これは……」
「ほう、見えるかね? この術はヴォイドシールド――私の得意とする魔法の一つだ……中々のものだろう?」
得意げに言う男がそのまま手を右に払うと、ハルバードごとエルキュールの身体を吹き飛んだ。
「ぐはっ――!」
「エルキュール!」
壁にたたきつけられたエルキュールのもとにグレンが駆け寄り、庇うように男との間に割って入る。
「……大丈夫だ、それにしてもあの魔法は……一体」
身体を起こしながらエルキュールは男を睨みつける。
先ほどの魔法はエルキュールが目にしたどの魔法書にも記述されていないものだ。使役された魔素から、闇魔法だということは辛うじて理解できるが、詳しい仕組みに関しては依然として分からないままだ。
「……一人じゃヤツに敵わねえ、オレが先に仕掛ける。お前はその隙に背後をとれ」
小さな声でエルキュールに告げると、手にした大剣に炎を纏わせ男に向かって剣を振るおうとする。
だがその瞬間、エルキュールは途轍もなく嫌な予感がした。
――グレンの行動を前に、何故だかローブの奥で男が微かに冷笑を浮かべたような気がしてならなかったからだ。
無論、エルキュールからはローブの内の男の顔は見えない。ならばそれは、ここに至るまでにエルキュールの心のうちに燻っていた不安が見せた幻覚だろうか。
疑念に駆られて、エルキュールの思考は加速してゆき、時の流れが遅くなったような錯覚すら覚える。
元々ここに来たのは魔獣とアマルティアに関する手掛かりを見つけるためだったが、周辺の林とは対照的に、この遺跡においてはその痕跡は不自然なほど見当たらなかった。
加えて、この男はエルキュールらの尾行に気が付いていた。いつからそうだったかは知らないが、気づいていたのならどうして何の対策もせずここまで知らぬふりをしてきたのか。
そして極めつけに、男が使用してきた未知の魔法。
未知といえば、北ヌール平原の魔獣に刻まれていた物も、魔法書には記載されていない未知のものだった。
諸々の要素に、朧気ながらも線が引かれていく感覚がエルキュールにはあった。
「っ、危ない!」
「お、おい――」
確証はなかったが、自身を襲った不吉な予感に身を任せ、エルキュールはグレンの腕を取り、後方へに思い切り引っ張った。
出端を挫かれたグレンが、エルキュールの行動の意図が分からず抗議を上げようとしたが、その声が空気を震わすことはなかった。
――突如として、天井が崩落し巨大な影が部屋に落下してきたのだ。耳を劈くほどの爆音と、広い部屋のほぼ全域を満たすほどの大量の土煙を伴いながら落ちてきたのは、エルキュールたちの何倍もの大きさを誇る巨大な大蛇である。
「なあっ!?」急に引っ張られたため、間抜けな格好で素っ頓狂な叫びをあげるグレン。エルキュールが彼の腕を引かれなければ、今頃は大蛇の下敷きになって息絶えていただろう。
嫌な予感こそ感じていたが、まさか頭上から大蛇が降ってくるとは。エルキュールも驚きを露わにする。
「シャアアァァァ!!」
エルキュールらと男との間に降りてきた大蛇は、二人を威嚇するように鳴き声を上げた。
その体の表面には緋色と黒色の鱗が瓦状に広がり、毒々しいコントラストを生み出している。
それだけならリーベの蛇だとも考えられなくもなかったが、その体のあちこちが、物質が削り取られたように消失しており、その隙間を埋めるように覆った紫の魔素質がゆらゆらと光を放っている。
それは、この大蛇が魔獣であることの証左であった。
「……ふむ、よく気づいたな。そのまま潰れてくれていたら手間も省けたのだが」
大蛇の後ろの陰に隠れた男が二人に賞賛の声をかけた。
「なんでいきなり魔獣が――」
体勢を立て直しながら困惑するグレンだったが、その顔はすぐに確信めいたものに変わる。
「ああ、あの男が意図的にこのタイミングで魔獣を呼び寄せたんだ」
グレンの思考を代弁するように、エルキュールは大蛇魔獣と男を見据えて言った。
遺跡内部に魔獣の姿が見えなかったのは、この男が意図的に隠していたからだった。
その隠し場所は二人が無視した上階であったため、エルキュールもここまで気づくことができなかったのである。だが、そんな予想外の出来事よりも無視できない事実があった。
「魔獣を操る能力……やはりアマルティアの者だったか」
その事実はエルキュールの視線を鋭いものに変容させた。
現に目の前に現れた大蛇は、こちらを威嚇こそするものの襲ってくる気配は見せなかった。
通常の魔獣ならそんなことはあり得ない。目の前に現れた敵を襲い、汚染するのが魔獣の性だ。
つまり、魔獣の行動に男が関与していることは明らかだった。
「別れの挨拶として、その通りだということを教えておこう。……さて、本来ならこの後に役立ってもらう予定だったが、仕方あるまい」
自身がアマルティアに関係することを認めると、男は残念そうな声色で大蛇の方に手を伸ばした。
「そういうわけだ。しっかり働いてくれたまえ、シュガール」
「……シ、シシャアアアァァァ!!」
男の手の先から怪しげな靄のようなものが発せられ、シュガールと呼ばれた大蛇を包み込んだ。それに包まれた途端にシュガールは凶暴性を増し、けたたましい鳴き声を上げた。
「うおっ!? 急に暴れやがったぞ!?」
シュガールの豹変にグレンは戸惑いながら剣を構えた。だが、エルキュールの目はその奥の男に依然として向けられていた。
男はこの場を魔獣に任せ、今度こそ離脱するつもりのようだ。その手に闇の魔素が集約する。
「……っ、待て!」
「ああ、待っているとも。――彼の地で」
二度目のゲートによる転移。それを阻止しようというエルキュールの試みは、シュガールの牽制によって打ち砕かれる。
「ちっ――」
薙ぎ払われた尾を後方に跳んで回避する。男は完全に姿を消し、この場にはエルキュールとグレン、大蛇のシュガールのみが残されることとなった。
去り際の男の言葉に若干の引っ掛かりを覚えたが、それ以上に男を逃してしまった事実に、エルキュールは珍しく苛立ちを露わにする。
魔獣に背を向けるのは自殺行為に等しい、この場で討伐しなくてはならないだろう。その間にあの男が何をしでかすのかと思うと、気が触れそうだったが。
「焦るな、エルキュール! とっととこのデカブツをぶちのめしてあの野郎に追いつくぞ!」
「――分かっている。こんなところで時間をとられるわけにはいかない」
グレンに倣い、エルキュールは武器を構えた。その琥珀の瞳にはかつてない程の闘争の意志が漲っていた。
エルキュールと少女が魔人との戦闘を開始したころ、一方のグレンはその肩にカイルを担ぎ、来た道を急いで引き返していた。 すんでのところで魔獣に襲われていたカイルを救出することに成功したグレンらだったが、運が悪いことに魔人までこの件に噛んでいたのだ。 一般的に魔人は魔獣に比べ知能が高く、その力も強大である。そんな危険極まりない存在との戦闘に、カイルを巻き込むわけには行かなかった。 故にグレンは一刻も早くカイルを連れこの森から離れる必要があった。 それには一秒たりとも無駄にはできない。カイルは一人でこの森に入ったようだったが、起伏のあるこの地形は子供の足で進むには時間がかかる。 ならば多少無理やりにでもカイルを担いでグレン一人の足でさっさと脱出してしまうのが得策ではある。 そうした判断の下、グレンはここまで一心不乱に駆けてきたのだが――「おい、はなせって、もう! いたいんだって、このツンツン頭!」「うるせぇ、ってかツンツンじゃねえ、グレンだ」 それまで沈黙を貫いていたグレンの口から遂に不平の声が上がる。 だがそれも無理からぬことであろう。他人の髪型に対する失礼な物言いもそうだが、先ほどからグレンの肩の上でカイルが暴れるのをやめないのだ。 加えてカイルが手足を動かすたび、グレンの腹やら頭やらにぶつかるものだから、今となってはその打たれた部分に鈍い痛みが走っていた。 こちらは助けに来た側だというのにあまりの仕打ちだった。グレンは打ち付けられた痛みと理不尽さから生じる苛立ちに顔を歪ませた。「ちっとは静かにしろよ。街に着いたらお望み通り放してやるからよ」「それじゃあダメなんだ! このままじゃジェナお姉ちゃんが――」「またそれかよ……ったく」 一向に抵抗を止めないカイルに嘆息する。どうやら魔術師の少女が危険に曝されている現状に我慢ならないようだった。 そういえばカイルはずっと魔術師の名前を口にしていたが、ここにきてようやくグレンはその理由に思い当たった。 クラーク夫妻の話では子供た
魔獣に囲まれていたカイルと魔術師の少女に加勢したエルキュールらの前に現れたのは、人型イブリス――魔人と称される生命体だった。その数は三体であり、それぞれの体表面には深緑の魔素質が浮き出ていた。「なんでこんなとこに魔人がいるんだよ!」 グレンの悲鳴は当然のことで、魔人というのは魔獣に比べて数も少なく、通常ならほとんど遭遇することもない。 その理由には魔人の発生過程が関係している。リーベである人間が魔物による汚染されることで、人間が魔人へと変貌する。現存する魔人はおおよそ汚染によって生まれているため、一般論で考えればここにいる魔人にも元になった人間――オリジナルがいるはずである。 しかし、こんな森の奥にそんな人間がいるものだろうか――「……まさか」「うん、多分……あなたの思った通りだよ」 エルキュールの中に生まれた確信は、その傍らに構えている魔術師の言葉によって裏付けられた。 現れた魔人に共通している要素として、身体の大きさ、魔素質の属性はもちろん、身体に付着している特徴的な金属片があった。 魔人には金属を纏う特徴などない。つまりあの金属片は魔人としての特徴ではなく、人間だったころの特徴であると解釈するべきなのだ。 そして、あの銀色の輝きはエルキュールの目にも新しく、ここのアルトニーの騎士隊が身につけていた甲冑のものと酷似していた。 そこまで考えたところでエルキュールは自身の益体のない想像を止めた。これ以上考察を並べても不快になるだけなのは明らかだった。どちらにせよ、これから為すべきことは決まっている。 エルキュールは手にしていたハルバードを前に構えた。幾度となく魔獣を、同朋を屠ってきた得物である。この武器で今回も同じように斬ってやればいいだけだ。 刃を向けられた魔人はおぞましい雄叫びをあげた。それに伴って辺りに魔力が迸る。オリジナルとなった人間が騎士であることから、その戦闘力は比較的高いと思われる。流石にカイルを守りながらでは厳しいだろう。「……魔人どもは俺が食い止める。二人はカイルを守りながら魔獣に対処してくれ」「え……?
グレン・ブラッドフォード――カーティス隊長が呼んだその名前をエルキュールは胸中で反芻する。グレンの苗字を尋ねることはなかったため、今になって初めてグレンのフルネームを知ったからというのもある。 が、そのこと以上にエルキュールが気になったのは、グレンがその名を冠しているという事実であった。 ブラッドフォード。先ほどの会話でもあったブラッドフォード騎士裁判所は現ブラッドフォード家当主のヴォルフガング氏の提案で設立された国家機関であり、同氏が裁判長を勤めているというのは広く知れ渡っていることだ。 もちろんそれも大層なものだが、ブラッドフォード家といえばオルレーヌ建国時から大きな力を持っている武家の一つとしても有名だ。その歴代当主は紅炎騎士の称号で呼ばれ、この国の防衛や政治にも携わっている。 養子とはいえ、今まで旅をしてきた連れがそんな大家に連なるものだと知れば、多少驚くのも無理はないことだった。「……ったく、名乗るつもりなんかなかったのによ」 思わぬところで自身のことを明るみに出され、グレンは煩わしそうに呻いた。「あなたがあの家に対してどのような思いを持っておられるかはさておき、この場は是非ともお力をお借りしたいものですねぇ」 グレンの態度を前に、カーティス隊長はその年に相応な柔和な笑みを浮かべた。申し訳なさそうな表情ではあったが、その声は相変わらず強い意志のようなものが混じっており、その年でここの騎士を任せられているのも納得の胆力を感じさせた。「それは分かってる。ま、一応オレが仲介すれば楽に手続きできるとは思うぜ」「ええ、感謝しますよ、グレン卿」 その会話から察するに、グレンの協力によってこのジェイクを正しく裁くように計らうようだ。当の本人はようやくその事実を認識したのか、その顔には絶望の色が広がった。「な……嘘だろ? 待ってくれ、違うんだ、俺は――」「いいえ? 何も違うことなどありませんよ、ジェイク。少なくともあなたが虚偽の理由で任務を放棄しようとした事実は、私を含めたこの場の証言だけでも証明できるでしょうし……そちらのご家族の件の詳細によってはより罪は重くなるや
ヌールからの旅人であることから、アルトニーの騎士詰所を訪ねるよう申し出を受けたエルキュールとグレン。その言葉の通りに赴いた二人だったが、そこで待ち受けていたのはある男の悲痛な叫びであった。 男の放った言葉に、グレンとエルキュールの顔も険しいものに変わった。 ――このままでは息子が……カイルが魔獣に殺されてしまうかもしれないのです……! 魔獣に殺される。あまりにも物騒なその言葉に、それまで入口の方で様子を見守っていたエルキュールも、男たちがいる詰所内の隅の方へ向かう。「それはどういう意味ですか?」 エルキュールが突如として会話に入ってきたことに多少驚いた素振りを見せたが、男は絞りだすように詳しい経緯を語り始めた。 男の名はリチャード・クラーク、傍らにいる女性と少女はそれぞれ彼の妻と娘であり、ここから西にあるガレアで農業を営んでいるらしい。 ここアルトニーへはニースで催されている大市に参加するために一時的に滞在しており、本来ならば一昨日の三日にはヌールへと向かっていたはずだった。「あなた方もご存じかもしれませんがその日は魔獣が大量発生しており、一般人の通行が制限されていたのです」 あの日のことについてはエルキュールもよく知っていた。ヌール・ガレア方面での魔獣の大量発生、当日の該当区間の通行には魔法士などの専門職の同行が必須だったのだ。「まあ、制限の方は然程問題ではなかったのですけどね……本当にあの魔術師さんには頭が上がりません」「魔術師だ? そんなお偉いさんがこの街にいたのかよ」 魔術師という単語にグレンは大仰に反応した。魔法士の上位職である魔術師は数も限られており、優れた魔法技術を持つことから国からも重宝されている。 一介の農商が雇うというのは少し珍しく、エルキュールも意外そうな目で相槌を打った。「いえ、雇ったというより彼女の目的のついでに、といった話でしたが……ともかくこれで何の憂いもなくニースへ、そう思っていたのに」
グレンが目を覚ましたのは翌日の早朝のことだった。 昨日からほぼ丸一日もの時間熟睡したグレンは大層機嫌がいいようで、ベッドから起き上がるとすぐに足を曲げたり手を回したり、身体を曲げたり跳ねたりして、発祥不明のよく分からない体操に精を出していた。「ふぃ~……って、どうしたエルキュール、そんな冷たい顔してよ」 仕上げの深呼吸まで丁寧に終えると、グレンはそれまで仏頂面でベッドに腰かけていたエルキュールを見やる。その額には汗が滲んでおり、それが光に照らされ煌めいているものだから、彼の彫りが深く精悍な顔つきと相まって絵画のような芸術性をもたらしていた。「――実に見事な動きだと思っていた」「『何て馬鹿な動きをしているんだろう』って思ってたってかぁ!なあ!」 物に当たらないよう広い空間で体操をしていたグレンは、大股でエルキュールの前に歩み寄ると腰に手を当て大声で怒鳴った。 謂れのない怒りに首をかしげるエルキュールに、「顔が物語ってるんだよ!」と彼の顔の目の前に指さしながらグレンは続ける。「いいか、朝の運動っていうのは人間のその日の代謝を向上させる上に体操ってのは普段使わない筋肉を使うことからより効果的に――」「それは分かっているさ」 グレンの妙な壺を刺激してしまったことを後悔しながらエルキュールは両手で制止する。「それより、昨日した約束のことを覚えているか? 王都を目指す前に、まずは騎士団の詰所へ顔を出そう」 建設的に話を進めるべく、人差し指を立てゆっくりと提案する。その重みのある声にグレンも矛先を収め、手拭いで額の汗を拭きながら応じる。「ああ、ここの騎士には既に連絡がいっているのかもしれねえが、情報を共有するのは大事だからな。それが済んだらいよいよ王都か――」 どこか遠い目をして呟くグレンをエルキュールは疑問に思った。何かを懐かしんでいる、そんな風に見て取れた。 よほど表情に出ていたのか、グレンはエルキュールの視線に気づくと苦笑し頭を掻いた。「――王都にはアマルティアの仲間が潜んでいるかもしれねえからな、
「おっ、やっと見えてきたなぁ。ふわぁ……」 隣を歩く赤髪の青年、グレンが眠そうに欠伸を零したのを見て、エルキュールは歩を止めて彼の様子を窺った。もう目と鼻の先にあるアルトニーの街を見据えるその顔には疲労が滲んでおり、声にも覇気が感じられなかった。 お互い心に秘めるものはあるものの、とりあえずは共に王都を目指すことになった二人ではあるが、流石にここまで徒歩で来るのは無理があったのかもしれない。 エルキュールとグレンの最初の出会いから既に丸一日は経過している上、魔獣との戦闘やヌールでの事件に巻き込まれたことから相当に体力を消費させられた。 魔人であるエルキュールは先ほど魔素を吸収して身体を回復させることが出来たが、対するグレンはあのヌール郊外の天幕の固い床で小一時間眠っただけである。流石に疲労困憊であろう。「街に着いたら早々に宿をとってしまおう、グレン。……空いているといいんだが」「ああ、まったくだな。……柔らけえベッドが恋しいぜ」 エルキュールの提案に、グレンは弱々しくはあるが確かな笑みを返した。 そうこうする内に街の入り口にある門に差し掛かる。門に控えている見張り役の騎士が二人に気が付いたようで、大層驚いた様子で彼らの下へ駆け寄ってくる。「お、おーい! 君たち、まさかとは思うがヌールから来たのかい!?」「そうですね……それより、街に空いている宿はありますか? ここまで寝ずに来たので休みたいのですが」 疲れて口もきけないグレンに代わってエルキュールが応じた。 騎士の男は二人の事情が気になって仕方がないといった様子だったが、流石にこの場で根掘り葉掘り尋ねるのも酷だと思ったのだろう、言葉少なに現在のアルトニーの様子を説明すると空いている宿を案内してくれた。「そうだ、明日にでもいいから我々が駐屯している騎士隊詰所に顔を出してくれないかな? どうやら一般人というわけでもなさそうだし、我々もヌールについては未だ不明の点が多いからね。強制はできないが、協力してくれると助か







